Blog記事一覧 > カウンセリング | 淀川区・十三で評判の荻野接骨院の記事一覧
こんにちは。
お盆明けから暑い日が続いていますが、
ミネラル不足には気をつけて、
残暑を過ごしていきましょう^ ^。
今日のお話は、
「友達が少ないんです」って話題。
カウンセリングをしていると、
若い方からも、そんな話になることがあります。
休日に遊ぶ人がいない。
向こうから誘ってくれる人も少ない。
何でも話せる親友もいない。
SNSを見ると、
みんな楽しそうに集まっている。

そんな時、
「自分って、人とのつながりが少ないのかな」
「なんだか寂しい人生なのかな」
と思ってしまうことがあります。
でも、ここで少しだけ、
「人とのつながりって、何だろう?」
と考えてみたいんです。
人間関係を考える時、
「家族」「親友」「友達」「恋人」「同僚」「知人」など、
そんなふうに、
関係に名前をつけて考えることがあります。
もちろん、それは便利です。
でも実際の一日を見てみると、
人との関わりはそんなにきれいに分類できません。
いつもの店員さんと、
「今日も暑いですね」と笑うことがある。
美容院へ行って、髪を切ってもらいながら一時間ずっと喋っていることもある。
仕事でしか会わないけれど、なんとなく雰囲気良いなと思う人もいる。
習い事の先生。
近所の人。
患者さん。
お客さん。
旅先でたまたま隣になった人。
名前すら知らないのに、
少し話しただけで妙に心に残る人もいます。
こうした人たちは普通、
「友達は何人いますか?」
と聞かれても、
その人数には入れません。
でも、だからそこには「つながりがない」と言えるのでしょうか?
本当の関係って何?

美容師さん、整体師さん、カウンセラーさんも、仕事として人と接しています。
そこにはお金が発生しています。
だから、「お金を払っているから会ってくれているだけ」
と考えることもできます。
それも一面では事実です。
でも、
お金が発生していることと、
その時間に何が起きたかは別の話なんです。
美容師さんの一言で元気になることもある。
先生との何気ない会話が、
何年も心に残ることもある。
たった一度会った人の言葉が、
その後の人生を変えることだってあります。
お金を払ったかどうかは、
その関係についての一つの情報です。
でも、
一緒に笑ったこと。
安心したこと。
相手を好ましく思ったこと。
話を聞いてもらってホッとしたこと。
相手の幸せを嬉しく思ったこと。
それらまで全部、
「お金が発生しているから」
で消えてしまうわけではありません。
人間関係で苦しくなっている時、
知らないうちに、
「向こうから誘ってくれるか」
「大切にしてくれているか」
「親友だと思ってくれているか」
「必要としてくれているか」
というように、
相手から見た自分を
確認し続けていることがあります。
もちろん、
一方通行の関係ばかりでは疲れてしまいます。
お互いを大切にできる関係も必要です。
ただ、
相手が自分をどう位置づけているかと、
自分の中にどんな気持ちが起きたかは、
別のことです。
相手から見れば、
「先生」かもしれない。
「患者さん」かもしれない。
「お客さん」かもしれない。
「仕事関係の人」かもしれない。
「今日たまたま話した人」かもしれない。
それでも、
その時間に相手を好ましく思った。
一緒に笑った。
話を面白いと思った。
幸せになればいいなと思った。
相手が自分をどれくらい好きかは
分からない。
でも、
こちらがその人を好ましく思ったことまで、
相手の評価によって消えるわけではありません。
そこには確かに、
人と人との間に何かが起きています。
「友達が少ない」と「つながりが少ない」は、
同じなのか?
ここを少し分けてみると、
景色が変わります。
休日に遊ぶ友達は少ない。
でも、
仕事ではいろんな人と話している。
近所に挨拶する人がいる。
いつものお店に顔を覚えてくれている人がいる。
月に、もしくは週に一度会って、
楽しく話す人がいる。
家族とくだらないことで笑うこともある。
そう考えると、
「人とのつながりがない」
と思っていた一日にも、
実はいろんな人との関わりが起きています。
人間関係の豊かさは、
「親友が何人いるか」だけでは測れないのかもしれません。
関係の「名前」より、
そこで何が起きているか。
長く付き合っているから深いとも限りません。
毎週会っているから親しいとも限らない。
逆に、
たった20分の会話が、
何年も心に残ることがあります。
「友達」
「夫婦」
「親子」
「先生と生徒」
「患者さんと治療家」
こうした名前は、関係を説明するには便利です。
でも、
名前が関係そのものではありません。
大切なのは、
その間で実際に何が起きているか?
だから、
「友達が少ないな」
と思った日は、
無理に友達を増やそうとする前に、
少しだけ一日を振り返ってみてもいいかもしれません。
今日は誰と関わっただろう?
その人といる時、どんな気持ちだっただろう?
挨拶しただけでもいい。
ちょっと笑っただけでもいい。
誰かの一言にホッとしたことでもいい。
誰かを好ましく思ったことでもいい。
そこには、
「親友」や「友達」という
名前がついていなくても、
確かに人と人との間に起きたものがあります。
もしかすると、
人とのつながりが少なかったのではなく、
「友達」という名前がついた関係だけを、
つながりとして数えていた、、、
そんなこともあるのかもしれません。
今日一日を振り返ってみると、
名前をつけていなかっただけで、
人との間に起きていたことが、
思っていたよりたくさん見つかるかも
しれませんね。
こんにちは。
今日は、
準備された状態でのみ、扉は開く。
について。
ソツタクドウキ。
漢字では、
「啐啄同機」という言葉があります。
啐啄同時とも言われます。
本来は禅の言葉で、
卵の中の雛が内側から殻をつつくことを「啐」、
親鳥が外側から殻をつつくことを「啄」といいます。
内側から、
「もう出たい」
という合図がある。
それに合わせて、外側から親鳥が助ける。
この内と外のタイミングがぴったり合った時、
雛は無事に殻を破って生まれてくる。
これが、啐啄同機です。
この言葉は、
整体にも、カウンセリングにも、
武術にも、人生にも、
とても大事なことを教えてくれている
ように思えます。

人は、外からどれだけ良いことを言われても、
まだその準備ができていない時は、
なかなか受け取れません。
正しいことを言われても、
ありがたいアドバイスをもらっても、
有名な先生に教わっても、
タイミングが合っていなければ、
それはただの「圧」になることがあります。
逆に、本人の中で何かが熟している時は、
たった一言で変わることがあります。
たった一回の施術で、
たった一本のブログで、
たった一つの出来事で、
人生の見え方が変わることもあります。
でもそれは、
その一言が魔法だったというより、
その人の中で、
すでに準備が進んでいたのだと思います。
扉は、いつでも開くわけではありません。
準備された状態でのみ、扉は開く。
だから、無理に変えようとすることは、
時にその人を傷つけることがあります。
まだ内側から音がしていない卵を、
外から割ってしまえば、
それは誕生ではなく、破壊になります。
子育てもそうかもしれません。
親としては、
早く気づいてほしい。
早く成長してほしい。
早くちゃんとしてほしい。
そう思うことがあります。
でも、子どもの中に
まだ「啐」が起きていない時、
外からいくら「啄」をしても、
ただうるさい音にしかならないことがあります。
夫婦関係も似ています。
相手に変わってほしい。
わかってほしい。
気づいてほしい。
そう思うほど、
こちらの言葉は強くなり、
正しさの形をした圧になっていくことがあります。
でも、相手には相手の間があります。
もちろん、
何でも待てばいいという話ではありません。
危険なこと、
身体を壊すこと、
人を傷つけること、
生活が崩れていくことに対しては、
ちゃんと線を引く必要があります。
ただ、
「今この人の中で何が育っているのか」
「今は開く時なのか、それとも温める時なのか」
そこを見る目は、とても大切ですね
整体の現場でも、
身体は急に変わることがあって、
ずっと痛かったところが、
ふっとゆるむ。
動かなかったところが、
急に動き出す。
呼吸が深くなる。
顔つきが変わる。
でも、それもこちらが無理やり
変えたというより、
身体の中で準備ができていたところに、
少しだけきっかけが入ったのだと思います。
本当の手助けとは、
相手をこちらの理想の形に変えることではなく、
その人の中にあるスペースを聴くことなんじゃないかなと。
早すぎず、遅すぎず。
押しすぎず、放置しすぎず。
言いすぎず、黙りすぎず。
その間合いに、
本当の導きがあるように思います。
内側からの小さな音を聴く。
外側からの一打ちを焦らない。
扉は、力でこじ開けるものではない。
今日も、誰かを変えようとする前に、
その人の中で何が育っているのかを、
少しだけ聴いてみたいし、
そして自分自身にも、
同じように問いかけてみたいですね。^ ^
今は、殻を破る時なのか。
それとも、もう少し温める時なのか。
焦らなくていい。
でも、眠り続けなくてもいい。
内側から音がした時、
扉はちゃんと開いていくかも知れません。
こんにちは!
お彼岸も過ぎて、
少し間が空きましたが、
今日は大切なことをひとつ書いてみます。
人との関わりの中で、
「しんどくなる人」と
「自然にいられる人」
この違いって、気になりませんか?
栄養や文化などだけでなく、
また技術や性格の問題だけでもなく、
更に奥の深いなところに、
一つの違いがあります。
それは、
「境界線」と「間」です。
一般的に境界線というと?
距離を取ること
相手と自分を分けること。
のように思われがちですが、
本質は少し違います。
境界線とは、
切るものではなく、
“間(あいだ)を持つこと”です。
人と人のあいだにある、
ほんの少しの余白。
触れてはいるけれど、
混ざっていない状態。
この「間」があるかどうかで、
人との関わりの質は大きく変わります。
この間がないと、
相手の感情や空気をそのまま受け取ってしまい、
自分のことなのか、
相手のことなのかがわからなくなります。
周りの空気に巻き込まれる
誰かの機嫌に左右される
必要以上に気を使ってしまう
こういった状態は、
「優しさ」ではなく、
優しさと思っていたものが、
ただ巻き込まれている状態なのかもしれません。
では、
なぜこの「間」がなくなるのでしょうか。
一つは、身体の緊張です。
身体が常にこわばり、
自律神経が過敏な状態になると、
外からの刺激をすべて拾ってしまいます。
いわば、
境界のセンサーが開きっぱなしの状態です。
もう一つは、安心感の不足です。
安心があると、
外の出来事が起きても必要以上に巻き込まれません。
しかし安心が弱いと、
無意識に外に同調し、
自分の中心が外側に引っ張られていきます。
その結果、
出来事に振り回される生き方になっていきます。
本来の状態は、
そのようなものではありません。
嬉しい、嫌だ、
うまくいった、いかなかった、
そういった反応が起こる前に、
もっと静かな場所があります。
思考が動き出す前の「間」。
その場所には、
すでに満ちている感覚があり、
何かを足さなくても成り立っている
状態があります。
境界線とは、
この「間」に戻れるかどうかでもあります。
頭で「これは自分、これは他人」と
分けるのではなく、
間に戻ることで、
自然と混ざらなくなる。
そのとき、
自然と境界線が整っていきます。
だからこそ、
境界線は考え方ではなく、
身体から整えていくことが大切です。
呼吸が静かに戻り、
身体の力が抜け、
足の裏や重さを感じられるようになると、
自然と「間」が生まれてきます。
その状態で人と関わると、
無理に頑張らなくても、
ちょうどいい距離で関わることができるようになります。
施術をしていても、
この「間」が戻ると、
身体の緊張がふっと抜ける瞬間があります。
人とつながりながらも、
自然体でいられる状態。
それが、
「間に生きる」ということかもしれません。
もし今、
人との関わりで疲れていると感じるなら、
「どう関わるか」ではなく、
「どの状態で関わっているか」
そこに少し意識を向けてみてください。
境界線は、
引くものではなく、
もともとある「間」に戻っていることに
気づくことなのかもしれません。^ ^
こんにちは。
今日はすり減らない身体について。
頑張れば進めれる!
気合いを入れれば、成果も出せる!
評価もついてくる!
でも?
どこかで乾いてくることはありませんか?
達成しているのに、
満たされない。。。?
それは性格の問題でも、努力不足でもありません。
もしかすると、いつもお話している
神経の順番が、少し入れ替わっているだけかもしれません。
身体は脳の認識よりも、
いつも先に知っています。
呼吸が浅い。
眠りが浅い。
お腹が固い。
甘いものがやめられない。
しかも、
イライラが増えてて、
焦りが強くなっていて、
新しい刺激を求めてしまう。。。
身体は、静かにサインを出しています。
それでも多くの場合は、さらにアクセルを踏んでしまう。
学校教育で、
真面目な人ほど、そうなりやすい。
刺激は悪くない。
挑戦も成功も、
悪いものではありません。
ドーパミンはエンジン。
進むための大切な力なんです。
でも、エンジンだけでは長く走れません。
土台が必要です。
土台とは何でしょうか?
具体的には、
血糖が安定していること。
腸が静かであること。
副腎が落ち着いていること。
皮膚が安心していること。
などです。
どれも派手ではありません。
SNSにも映りません。
でも、
ここが整っていると心も揺れにくくなります。
ここが崩れると、
どんな成功もどこかで苦しくなります。
腸は境界。
腸は、外と内のあいだです。
ここが疲れていると、
間が埋まって、
世界に対しても少し警戒が増えます。
呼吸が浅くなり、
知らないうちに力が入ってしまってる。
そして安心が減ると、何かの動画や、
何かのイベント、
とりあえず手っ取り早い刺激で埋めたくなる。
でも本当に必要なのは、安心、
そのものかもしれません。
血糖は感情の地盤です。血糖が落ちると、
交感神経が立ち上がります。
焦る。
怒る。
不安になる。
それは弱さというよりも、
エネルギー不足ってこと。
土台が揺れているだけです。
整えば、
気持ちも自然に落ち着いてきます。
触れるという回復、
強い刺激ではなく侵入しない触れ方。
ゆっくり、ふわっと、あたたかく。
皮膚が安心すると、
脳の感情を司る扁桃体が静まり、
内臓へ巡る迷走神経が戻ります。
身体は思い出します。
守らなくても大丈夫なんだと。
そこから回復は始まります。
副腎が疲れていませんか?
成功欲求の奥にあるのは、安心したい気持ちでは無いですか?
慢性的なストレスは、副腎を静かに消耗させます。
疲れているときほど、
成果を求めてしまうんです。
それも理由は簡単で、
認められれば安全だと、アタマが思い込んでいるから。
でも本当に必要なのは、
楽しいとか、役に立つとか、自信がどうとかではなくて。
休める神経です。
守られながらやってくる順番は、
先ず整う。
いわゆるセロトニン的な「安定」
朝日浴、リズム運動、深い呼吸、
腸内環境への食事。
↓
そしてつながり。
オキシトシン的な「つながり」
信頼、安心できる関係で触れられること。
↓
そして淡々と動くです。
仕事、勉強、遊び、エンジョイ。
ドーパミン的な活動です。
この順番を守るだけで、挑戦は続きます。
順番が逆になると、
どこかで燃え尽きます。
ですので荻野接骨院は、
治す場所というより、取り戻す場所です。
呼吸を。
体温を。
安心を。
何かを足す前に、
何かを証明する前に、
身体がそっと静かであること。
その上に、
仕事も、夢も、成功も、自然に乗っていきます。
最後に、
もし少しすり減っているなら、
刺激を増やさなくて大丈夫です。
まずは、
血糖を整え、
腸を休め、
副腎をいたわり、
触れられてゆるむ。
すると不思議と追わなくても進んでいます。
満たされている身体は、
強いんです。
焦らないんです。
そして、壊れにくいんです。^ ^
こんにちは!
今日は興味深い、
江戸時代の武士の在り方からみた、
お話をギフトさせて頂きます。
江戸時代、
侍達は刀を腰に差して生きていました。
だけど、実は刀って、
「抜くため」だけにあるものでは
なかったらしいんですよね。
実際使うのは、
親や師匠の敵討のみ認めるみたいな、
法律があったみたいで。
当たり前なんですが、
町人とぶつかったりしたからと
本当に抜いてたら、
相手が傷つきますし、
場合によっては、命が終わる。
そして罪として牢屋行き。
だからこそ、
侍の世界には「抜かずに済ませる」
ための文化があったんだそうです。
使わずに、
武士の在り方を現す
といった立ち位置。
だから、
争う前に勝負をつける。
戦う前に場を収める。
言い換えるなら、
強さとは「勝つこと」よりも、
争いを起こさない“構え”にあった
とも言える話なんです。
最近、とある対談の中で
武士達が、右側を歩くのは、
『私は抜きません』という所作を表していた
みたいな話が出ていました。
これが事実かどうかは置いといて。
この話、
ものすごく象徴的で面白くないですか?
実は現代でも、
みんな刀を差して生きている。
ただ、形が違う。
現代の刀は、鉄ではないです。
なんだと思いますか?
それは、
現代の刀は、
「正しさ」でしょうか。
正しさは、めちゃくちゃ切れます。
しかもすぐ抜ける。
居合術者もびっくりするくらい。
むしろ、抜く方が簡単。
場面としては、
夫婦の会話で。
親子の会話で。
職場の空気で。
SNSのコメント欄で。
相手の言葉に引っかかった瞬間、
こっちは一瞬で刀を抜ける。
「それは違うやろ」
「普通こうやろ」
「常識的に考えて」
「なんで分からへんの?」
「私の方が正しい」
「あなたが間違ってる」
「謝るべき」
「改めるべき」
これらは全部、
正しさの刀に見えませんか?
切れ味抜群!!
その場では勝った気になる。
でもそのあとに残るのは、
相手の傷だったり、
場の凍りつきだったり、
関係の距離だったりする。
正しさを抜くと相手は切れる。
それだけやなくて、自分も切れる。
自分が作り出した「正義」に
自分が縛られて、
戻ってこれなくなる。
おもしろいのは、
正しさって「自信」から抜くんじゃない事がわかってて、
むしろ「不安」から抜くことが多いみたいで。
分かってほしい。
否定されたくない。
大事にされたい。
安心したい。
認められたい。
守りたい。
その感情の奥にある不安が、
正しさの刀を抜かせる。
正しさって、
相手を斬るためにあるんじゃなく、
自分の不安を守るために抜きたくなるもの。
だからこそ、
「右側を歩く」って比喩所作が、
今の時代に効いてくる。
右側を歩く。
それは、
正しさを抜かない所作。
抜けるのに抜かない。
言い返せるのに言い返さない。
論破できるのに論破しない。
黙って突き放せるのに、突き放さない。
勝てるのに勝ちを作らない。
これは弱さじゃなくて、
むしろ、強さに見えませんか?
正しさを抜かないというのは、
相手に負けることではないんですね。
「勝ち負け」の土俵に乗らないということ。
争いの世界線に入らないということ。
よくあるのが、正しさを抜かへんと、
「自分が負けた気がする」
って感じるパターン。
でも実際は違います。
正しさを抜くと、勝てるかもしれません。
けど、関係は負けます。
空気は負けます。
未来は負けます。
そして最後、自分の心が負けています。
抜けるけど抜かない。
この間、余白があるだけで、
余計な摩擦や、大切にしていた関係が
終わらなくて済むかも知れません。
これは整体の施術にも似ています。
身体を変えるために、
圧という刀は、簡単に抜ける。
効かせることもできる。
その場で変化を出すこともできる。
それらも時に必要な場面もあります。
でも、
抜かない方が深く整う時があるんです。
圧で変えるんじゃなくて、
安心の場を作って、
身体が勝手に戻るのを待つ。
「技で勝つ」ではなく、
「整いが起きる世界線を選ぶ」。
それはある意味、
現代の“無刀取り”みたいなものかもと思ったりしてます。
正しさってのは、手放すのは難しい。
なぜなら、
正しさは気持ちいいから。
自分が正しいと思えた瞬間、
一瞬だけ不安が消える。
でも、その気持ちよさには代償があるのでした。
相手との距離。
場の緊張。
心の硬さ。
だから今日、
ひとつだけ提案してみます。
現代の刀は「正しさ」。
そして右側を歩くとは、
正しさを抜かない所作。
抜けるのに抜かない。
してみません?
これができた時、
勝ち負けとは別のところで、
世界が静かに整い始めるかも知れません。。
争いを終わらせるのは、
言葉や理屈よりも、
所作かもしれませんよ。
あなたの今日の一歩が、右側になりますように。^ ^
こんにちは。
今日は日常生活の間シリーズのエピローグです。
タイトルは、
〜間が、生命になる〜
です。
「スペース」「調和」「リズム」
これらを
それぞれを見てきた存在として、
今あらためて気づいたことはありましたか?
実はこれらは別々のものではなく、
すべてが“間”という
生命の動きの現れだということに。
スペースは、流れのための余白。
調和は、響き合うための間。
リズムは、その往復の呼吸。
空けて、響いて、動く。
この三つの働きがひとつになるとき、
私たちはようやく、
生きていることそのものに戻っていきます。
それは、
頑張るでも、悟るでもなく、
ただ存在が流れに委ねている状態。
静けさの中で、
呼吸と鼓動と世界の音がひとつに重なり、
状態という形が、
大きな生命の波の中で溶けていく。
その瞬間、
実は「整える」も「治す」もいらなくなるんです。
なぜなら、
生命そのものが、
すでに整っているからです。
整体の場でも、
受け取る準備ができている状態に、
この存在がすべきことは、
何かを足すことでも、
欠けたものを探すことでもなく、
ただ、
この“間”に気づき続けること。
その気づきが深まるほど、
人との関係も、
身体の動きも、
エネルギー、エナジー、
すべてが自然と流れ始めます。
そしてその流れの中で、
苦しみも喜びも、
同じ生命の拍動として、
息づいていることに気づけたらどうでしょうか。
“間”とは、
静けさの中にある呼吸であり、
自然世界と存在がひとつであることを
思い出す場所。
今、
その“間”に耳を澄ませた瞬間から、
どこででも、
すでに生命の音楽は始まっているかも
知れません。
こんにちは!
今日はリズム編(後半)です。
タイトルは、
〜生命の拍動として生きる〜
です。
リズムとは、
存在の外にある音ではなく、
本来、存在そのものの中で響いている拍動です。
心臓の鼓動、
呼吸の波、
情動のうねり。
それらはすべて、生命が奏でるリズム。

けれど私というものはいつのまにか、
その自然な拍動よりも、
早いテンポで生きようとします。
「もっと良く」
「もっと早く」
「もっと上へ」
その動きが続くほど、
本来のリズムとのズレが広がっていく。
やがて、
心は先を急ぎ、(悩み)
体は追いつけなくなり、(症状)
呼吸は浅くなっていく。(病気)
そんな時でも、
一度、沈黙と静けさの中に戻って、
生命のリズムに聴き入ることが大切です。
やろうと思えば、
いつだって出来ること。
例えば、
呼吸を感じてみると、
吸う息と吐く息のあいだに、
小さな“間”があることに気づきます。
その“間”こそが、
生命が世界と繋がっている場所なんですよ。
そこには何の努力もなく、
ただ自然に波が往復しています。
その波に耳を澄ませていると、
体の内側で感じる拍動と、
外の風や音のリズムが、
同じテンポで響いてくる瞬間があります。
そのとき、
存在と世界の境はなくなり、
ただひとつの呼吸として、
生命が息づいていることに気づくのです。
![]()
リズムとは、
外の音に合わせることではなく、
自然の拍動と存在の呼吸が重なる瞬間。
そこに「正しさ」も「遅さ」もなく、
ただ、今という波が満ちては返しています。
この存在は、
そのリズムの中で生まれ、
そのリズムの中で還っていく。
生きるとは、
その拍動を感じながら、
今この瞬間を響かせ続けることなのかも。
真実はわかりませんが、
その中で生きているんですね。
こんにちは。
朝晩が寒くなってきましたね。
今日も日常生活の間シリーズ、
リズム編(中盤)です。
タイトルは、
〜日常の波に耳を澄ます〜
です。
リズムは、特別な音楽の中だけにあるわけではありません。
この状態の生活そのものが、
ひとつのリズムとして動いています。
朝に目を覚まし、
昼に動き、
夜に静まり、
眠りによって再びリセットされる。
それは1日の呼吸のようなもので、
どんな人の中にも、絶えず流れています。
ところがこの存在たちは、
この自然なリズムよりも、
「〜やらなければ」
「早くしなければ」と、
頭のテンポで、
動いてしまいがちです。
すると、呼吸が浅くなり、
体も心も存在の波からずれていく。
焦りや不安は、
その“ずれ”のサインかもしれません。
リズムを取り戻すには、
何かを止めるよりも、
先ずは
“本来のテンポに戻ること”。
たとえば、
朝起きてすぐに動き出す前に、
一呼吸して外の空気を感じてみる。
昼に少し疲れを感じたら、
5分でも椅子に座って、
背中の緊張を感じながら深呼吸をする。
夜はスマホの光を消して、
身体が沈んでいくような感覚を味わう。
そんな小さな動きの中にも、
「静」と「動」のリズムが息づいているんです。
繰り返しますが、
リズムを聴くというのは、
「存在の外」に合わせることではなく、
「存在の中」に戻ること。
それができた時、
同じ時間でも、
世界の見え方が変わっていきます。
焦っていた一日が、
ゆるやかな波に包まれたように感じられ、
“進まなければ”
が、
今ここでいい^ ^
に変わっていく。
リズムとは、
世界に合わせるものではなく、
世界と共に呼吸すること。
かも知れません。
面白いですね。^ ^
こんにちは。
ついに調和編(後半)になります。
いずれブログでも、
カウンセリングやセミナーでしているような、
簡単なワークも書いてみたいと思ってます。
お楽しみに。
今日のタイトルは、
〜生命の調和〜
です。
本当の調和とは??
それは、
“自分と世界が響き合っている”
ことに気づく状態です。

それは、
人と合わせようとすることでも、
流れを読もうとすることでもありません。
ただ、この存在が、
すでに世界の一部として呼吸している状態。
その事実を思い出すだけで、
調和はもう始まっていたりします。
たとえば、、
海の波がひとつ動くとき、
他の波も連動して形を変えます。
でもどの波も
「合わせよう」とはしていません。
ひとつの海が、
無数の形となって動いているだけ。
この存在の身体も、感情も、思考も、
ただ世界の波の一部なんですよ。

“存在が整う”というのは、
“全体が整っていく”ことと同じです。
だから調和とは、
何かを目指してつくるものではなく、
すでに響き合っていることに気づくこと。
気づくことなんです。
そこに気づくと、
誰かの声も、
風の音も、
通り過ぎる出来事さえも、
一つの見方としては、
全部が同じリズムを奏でているように
感じられます。
![]()
そして、
そのリズムの中では、
善悪も成功も失敗も、
ただの“動き”に過ぎません。
この存在が見ていた対立は、
大きな生命のリズムの中で、
すーんと溶け、
ひとつの流れとして再び息づいていく。
調和とは、
世界とひとつの呼吸をしている状態。
それは“努力して作る”のではなく、
世界の呼吸を、
この存在の呼吸として感じている瞬間です。

静かに目を閉じ、
ただ呼吸の音を聴く。
その中に、もうすでに
すべての調和が息づいています。
以上、日常生活の間、調和編でした。^ ^
次回から、とりあえず最終のリズム編です。
こんにちは。
調和編(中盤)です。
タイトルは、
〜場や流れと響き合う〜
です。
人との調和が
“関係の間”だとしたら、
場や流れとの調和は
“時間の間”とも言えます。
あるあるですが、
この存在たちは日々、
「もっと早く」
「今じゃないと」
「こうあるべきだ」と、
タイミングを自分の都合で決めがちです。
けれど自然の流れの中では、
芽が出る時もあれば、
じっと根を張る時もあります。
花が咲くように、
それぞれの出来事にも“季節”があるのです。
無理に動かそうとすると、
まだ熟していない果実をもぎ取るようになり、
流れを硬くしてしまう。
一方で、流れを信じて待つと、
想像していなかった形で、
必要なものがやってきます。
これは
“努力しない”と
いう意味ではありません。
努力や行動は
「波に乗るための漕ぎ出し」であり、
大切なのは、
どの波に乗るかを感じ取る感性です。
もし思いどおりに進まない時は、
「止まっている」ようでいて、
実は“次の流れに合わせて調整している時間”かもしれません。
焦りを手放して、
今という瞬間に耳を澄ませると、
そこにも静かなリズムが流れています。
たとえば、
交通渋滞で立ち止まった時、
予定がずれた時、
人とのすれ違いが起きた時。
それらもすべて、
調和のリズムの中の“ゆらぎ”です。
「うまくいかない」と
思ったその出来事が、
実は次の自然な展開への
入り口だったりします。
調和とは、整えることではなく、
すでに整っている流れになっている状態。
そこに気づいた瞬間、
出来事も、
人も、
自分も、
同じリズムの中で、
ゆっくりと動きはじめるかも知れません。
次回は後半です。




























































