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こんにちは。
今日は日常生活の間シリーズのエピローグです。
タイトルは、
〜間が、生命になる〜
です。
「スペース」「調和」「リズム」
これらを
それぞれを見てきた存在として、
今あらためて気づいたことはありましたか?
実はこれらは別々のものではなく、
すべてが“間”という
生命の動きの現れだということに。
スペースは、流れのための余白。
調和は、響き合うための間。
リズムは、その往復の呼吸。
空けて、響いて、動く。
この三つの働きがひとつになるとき、
私たちはようやく、
生きていることそのものに戻っていきます。
それは、
頑張るでも、悟るでもなく、
ただ存在が流れに委ねている状態。
静けさの中で、
呼吸と鼓動と世界の音がひとつに重なり、
状態という形が、
大きな生命の波の中で溶けていく。
その瞬間、
実は「整える」も「治す」もいらなくなるんです。
なぜなら、
生命そのものが、
すでに整っているからです。
整体の場でも、
受け取る準備ができている状態に、
この存在がすべきことは、
何かを足すことでも、
欠けたものを探すことでもなく、
ただ、
この“間”に気づき続けること。
その気づきが深まるほど、
人との関係も、
身体の動きも、
エネルギー、エナジー、
すべてが自然と流れ始めます。
そしてその流れの中で、
苦しみも喜びも、
同じ生命の拍動として、
息づいていることに気づけたらどうでしょうか。
“間”とは、
静けさの中にある呼吸であり、
自然世界と存在がひとつであることを
思い出す場所。
今、
その“間”に耳を澄ませた瞬間から、
どこででも、
すでに生命の音楽は始まっているかも
知れません。
こんにちは!
今日はリズム編(後半)です。
タイトルは、
〜生命の拍動として生きる〜
です。
リズムとは、
存在の外にある音ではなく、
本来、存在そのものの中で響いている拍動です。
心臓の鼓動、
呼吸の波、
情動のうねり。
それらはすべて、生命が奏でるリズム。

けれど私というものはいつのまにか、
その自然な拍動よりも、
早いテンポで生きようとします。
「もっと良く」
「もっと早く」
「もっと上へ」
その動きが続くほど、
本来のリズムとのズレが広がっていく。
やがて、
心は先を急ぎ、(悩み)
体は追いつけなくなり、(症状)
呼吸は浅くなっていく。(病気)
そんな時でも、
一度、沈黙と静けさの中に戻って、
生命のリズムに聴き入ることが大切です。
やろうと思えば、
いつだって出来ること。
例えば、
呼吸を感じてみると、
吸う息と吐く息のあいだに、
小さな“間”があることに気づきます。
その“間”こそが、
生命が世界と繋がっている場所なんですよ。
そこには何の努力もなく、
ただ自然に波が往復しています。
その波に耳を澄ませていると、
体の内側で感じる拍動と、
外の風や音のリズムが、
同じテンポで響いてくる瞬間があります。
そのとき、
存在と世界の境はなくなり、
ただひとつの呼吸として、
生命が息づいていることに気づくのです。
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リズムとは、
外の音に合わせることではなく、
自然の拍動と存在の呼吸が重なる瞬間。
そこに「正しさ」も「遅さ」もなく、
ただ、今という波が満ちては返しています。
この存在は、
そのリズムの中で生まれ、
そのリズムの中で還っていく。
生きるとは、
その拍動を感じながら、
今この瞬間を響かせ続けることなのかも。
真実はわかりませんが、
その中で生きているんですね。
こんにちは。
朝晩が寒くなってきましたね。
今日も日常生活の間シリーズ、
リズム編(中盤)です。
タイトルは、
〜日常の波に耳を澄ます〜
です。
リズムは、特別な音楽の中だけにあるわけではありません。
この状態の生活そのものが、
ひとつのリズムとして動いています。
朝に目を覚まし、
昼に動き、
夜に静まり、
眠りによって再びリセットされる。
それは1日の呼吸のようなもので、
どんな人の中にも、絶えず流れています。
ところがこの存在たちは、
この自然なリズムよりも、
「〜やらなければ」
「早くしなければ」と、
頭のテンポで、
動いてしまいがちです。
すると、呼吸が浅くなり、
体も心も存在の波からずれていく。
焦りや不安は、
その“ずれ”のサインかもしれません。
リズムを取り戻すには、
何かを止めるよりも、
先ずは
“本来のテンポに戻ること”。
たとえば、
朝起きてすぐに動き出す前に、
一呼吸して外の空気を感じてみる。
昼に少し疲れを感じたら、
5分でも椅子に座って、
背中の緊張を感じながら深呼吸をする。
夜はスマホの光を消して、
身体が沈んでいくような感覚を味わう。
そんな小さな動きの中にも、
「静」と「動」のリズムが息づいているんです。
繰り返しますが、
リズムを聴くというのは、
「存在の外」に合わせることではなく、
「存在の中」に戻ること。
それができた時、
同じ時間でも、
世界の見え方が変わっていきます。
焦っていた一日が、
ゆるやかな波に包まれたように感じられ、
“進まなければ”
が、
今ここでいい^ ^
に変わっていく。
リズムとは、
世界に合わせるものではなく、
世界と共に呼吸すること。
かも知れません。
面白いですね。^ ^
こんにちは。^ ^
今日から日常生活の間シリーズ、
リズム編です。
タイトルは、
〜動きと静けさのあいだで生きる〜
です。
この存在たちは日々、
“動くこと”と“止まること”を
繰り返していますよね。
けれど、たぶん多くの人は、
「動く」ことばかりを価値とし、
「止まる」ことを後ろめたく感じてしまうんじゃないですか?
しかし本来、
生命は“動きと静けさのあいだ”で
息づいています。
心臓は打っては休み、
呼吸も吸っては吐き、
波も寄せては返す。
もし、
どちらかだけになっちゃうと、
生命はそこに留まれません。
つまり、リズムとは、
動きと静けさの調和した往復なんです。
それは、
「頑張ること」でも「力を抜くこと」の
どちらか。
みたいなでもなくて。
どちらでもなんです。
どちらも、自然に訪れてくる流れを、
そのまま受け入れている状態。
この存在たちが疲れ果てるのは、
止まることを怖れて、
動き続けようとするから。
逆に、
何もしたくないのに焦る時は、
本来の動き出すリズムが訪れている
のかもしれません。
リズムを感じるというのは、
“動くタイミング”と“止まるタイミング”を
思考で決めるのではなく、
生命の内側が奏でる拍動を聴くこと。
なんです。
外の音に合わせるのではなくてね。
存在の内なる波に耳を澄ませる。
そのとき、
一日の中の小さな出来事も、
他人の言葉も、
全部がひとつの音楽のように
感じられはじめたりするかもです。
関西人ぽく言うなら、知らんけど。笑
こんにちは。
調和編(中盤)です。
タイトルは、
〜場や流れと響き合う〜
です。
人との調和が
“関係の間”だとしたら、
場や流れとの調和は
“時間の間”とも言えます。
あるあるですが、
この存在たちは日々、
「もっと早く」
「今じゃないと」
「こうあるべきだ」と、
タイミングを自分の都合で決めがちです。
けれど自然の流れの中では、
芽が出る時もあれば、
じっと根を張る時もあります。
花が咲くように、
それぞれの出来事にも“季節”があるのです。
無理に動かそうとすると、
まだ熟していない果実をもぎ取るようになり、
流れを硬くしてしまう。
一方で、流れを信じて待つと、
想像していなかった形で、
必要なものがやってきます。
これは
“努力しない”と
いう意味ではありません。
努力や行動は
「波に乗るための漕ぎ出し」であり、
大切なのは、
どの波に乗るかを感じ取る感性です。
もし思いどおりに進まない時は、
「止まっている」ようでいて、
実は“次の流れに合わせて調整している時間”かもしれません。
焦りを手放して、
今という瞬間に耳を澄ませると、
そこにも静かなリズムが流れています。
たとえば、
交通渋滞で立ち止まった時、
予定がずれた時、
人とのすれ違いが起きた時。
それらもすべて、
調和のリズムの中の“ゆらぎ”です。
「うまくいかない」と
思ったその出来事が、
実は次の自然な展開への
入り口だったりします。
調和とは、整えることではなく、
すでに整っている流れになっている状態。
そこに気づいた瞬間、
出来事も、
人も、
自分も、
同じリズムの中で、
ゆっくりと動きはじめるかも知れません。
次回は後半です。
こんにちは。
毎夜、お月さまが明るいですね。
今日からは、
セミナーやカウンセリングでのみ
お伝えしている上辺の話ですが、
調和編に入ります。
長くなりそうなので、
前半から中、後半と、
三つに分けて書いていきます。
タイトルは、
〜合わせる調和から、自然に整う調和へ〜
この存在達はよく「調和が大切」と言います。
でも、
ここで言う“調和”の多くの場合は、
「我慢して合わせること」
や
「波風を立てないようにすること」
だったりします。
しかし本来の調和とは、
自分を小さくして周りに合わせること
ではなく、
お互いの“違い”が響き合って、
自然に整っていく状態のこと。
一つにならなくて良いんです。
たとえば、
演奏の中で一人ひとりが、
同じ音を出しても
それは音楽にはならず、
それぞれが自分のリズムと、
音色を保ちながら、
ひとつの“流れ”を作るときに
音楽が生まれます。
人間関係も同じで、
無理に!良くしよう!とすると、
その瞬間に呼吸が浅くなり、
相手との間が硬くなる。
でも、自分の呼吸を感じ、
相手の間合いに耳を澄ませると、
自然とタイミングが合ってくることがあります。
それは努力ではなく、
「流れを聴いている」状態。
調和とは、
合わせる技術ではなく、
流れの中で“共に揺らぐ”感性のこと
なのです。
だから、
関係がうまくいかないときは、
無理やり頑張って距離を詰めるよりも、
一度スペースを取るほうが
調和に近づくこともあります。
人との関係には、
近づく間もあれば、
離れることで保たれる間もあるんですね。
どちらも同じリズムの一部です。
その視点で見ると、
「うまくいっている」
「いっていない」も、
実はひとつの大きな調和の中の
波のようなもの。
私たちは、
その波に逆らうのではなく、
ただ“感じながら揺れている”だけ
でいいのかもしれません。
明後日は中盤になります。
軽く感じる方はお楽しみに。^ ^
こんにちは!
スペース編後半です。
今日は、
〜存在そのものがスペースになる〜
って話です。

そもそもスペースとは、
何かを空けようとする行為ではなく、
本来すでに空いている
“状態”のことかもしれません。
植物や動物たちは、
何かを得ようとも、守ろうともせず、
ただそのまま在ります。
風が吹けば揺れ、
雨が降れば濡れ、
陽が差せば光を受け取る。
ライオンが狩りに出るのも同じです。
それは奪うためではなく、
受け取るための動き。
必要な時に動き、
満たされれば静まる。
その行為は意志ではなく、
生命のリズムそのものに見えませんか?

つまり、スペースとは
「何かをする」ことではなく、
「流れとして存在すること」。
意図や比較という“軸”を手放した時、
世界は静かに広がりはじめます。
その広がりの中では、
何かを掴まなくても、
必要なものが自然に訪れ、
関係も状況も、
あるべき形へと整っていくかも知れない世界。
スペースが「状態」になるとは、
行動と存在が分かれなくなること。
意識と行動の一致。
することと在ることが一つに溶ける瞬間。
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その時、
この状態は“頑張る”のをやめて、
“応じる”ように生き始めているように思います。
それは「何もしない」ことではなく、
“何にもならなくていい”という自由。
この自由の中で、
呼吸は深くなり、
身体は軽くなり、
世界がもう一度、やさしく感じられる。
何もしていないのに、
空気が澄んだり、
誰かの表情がやわらいだりする。
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日常生活でのスペースとは、
私たちが「存在を取り戻す状態」。
それは努力でつくるものではなく、
すでにそこに、
いつも在る静けさに、
ただ気づくだけのことかも知れません。
まだまだありますが、^ ^
次回は調和編です。
こんにちは。
今年の秋はなかなか暑いですが、
夕方には涼しい風がやって来て、
すーっと癒されますね。
自律神経にとっては、まだまだ夏からの調整が大変な人もいるでしょうが、
コツコツと、目の前の当たり前のことから始めましょう。^ ^
今日は新シリーズ、
日常生活での間についてですね。
私たちは日々、
“何かをする”ことで安心しようとしますよね。
けれど本当の変化や癒しは、
“何もしない間”に生まれることの方が
多いのかもしれません。
“間”とは、
空白ではないんです。
それは生命の呼吸が宿る、場 です。
それは、
行動と行動のあいだ、
言葉と沈黙のあいだ、
心と体のあいだに、
気づかれないよう、ひっそりと存在しています。
前回まで見てきた
プライド・世間体・駆け引きは、
すべて、
この「間」を塞いでしまう反応でした。
鎧を着て守ると、感じる間が消える。
人の目を気にすると、内側の間が縮まる。
不安で駆け引きをすると、信頼の間が潰れる。
けれど“間”が戻ると、
再び「流れ」がやってきます。

それは人との関係の流れであり、
自然のリズム、
見えないリズムとも共鳴しています。
生命は常に“間”から生まれています。
細胞と細胞のあいだ、
吸う息と吐く息のあいだ、
夜と朝のあいだ、
その“あいだ”にこそ、
生命のリズムが息づいているんですね。
日常の中にも、
たくさんの“間”が隠れています。
食事の前の一呼吸。
家を出る前に空を見る一瞬。
会話の中で、言葉を選ぶ沈黙。
それらはすべて、
流れを戻す小さな入り口です。
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つまり“間”とは、
自我の時間を超え、
生命の時間に戻る扉 なのです。
次回からは、
この“間”を三つの切り口から見ていきます。
「スペース」──空間を空けること。
「調和」──関係の響きを感じること。
「リズム」──時間の波に委ねること。
この三つの間を日常の中で、
意識できるようになると、
“整える”ではなく
状態に戻るという感覚が自然に訪れます。
ここまで、
「プライド」「世間体」「駆け引き」
という三つの価値観を見てきました。
本来はカウンセリングでお伝えしている内容のごく一部ですが。
プライドは鎧となり、
呼吸や学びを止めてしまう。
世間体は自分の中に他人の目を作り、
自由を奪ってしまう。
駆け引きは不安の計算で、
信頼のスペースを潰してしまう。
どれも一見、常識的には
大切そうに思えるものですが、
実際には共通して、
「流れを止め、硬直させる」
点がありました。
これら三つの深い奥にあるものは?
プライドの奥には信頼。
世間体の奥には 調和。
駆け引きの奥には 循環。
と言うキーワードが隠れており、
それらが、
「信頼したい、されたい、」
「調和したい、させたい、」
「循環したい、させたい、」
と思っている我欲の働きになっている。
もしくは、
「信頼していなければ、されてなければならない」
「調和していなければならない」
「循環していなければならない」
と
義務感に変わっている時にも、
本来すでにある生命の流れから離れて、
間違えない世界、
プライド、世間体、駆け引きという形へと、
固めてしまいます。
信頼も調和も循環も、
つくり出すものではなく、
すでにそこに用意されていて、
塞がなければ自然に現れているかもしれません。
いや、本来はそんな言葉の必要性もないかも知れませんね。
次回からは、
これらとは違う次元である「間」をテーマにしていきます。
日常生活の中でどうやって「間」を増やし、
調和とリズムを取り戻すのか?
「スペース」「調和」「リズム」
の三つの切り口でお伝えしていきます。
(^人^)
こんばんは。
三部作で、
今日のお話しは駆け引き編ですね。
なんか好評だったので、
また三部作構成で、
次の日常生活の間編も書くかも知れません。
お楽しみに。
戦略と言えばカッコいいかもですが、
日常生活での駆け引きは、
人を相手にしているようでいて、
実は自分をすり減らす行為かも知れません。
「どう言えば得をするか」
「どう振る舞えば損をしないか」
こんな選択肢を
頭の中でシナリオを描き続けると、
心も体は、
常に緊張した状態になっています。
それは、短期的に利益を得ても?
その裏では呼吸が浅くなり、
肩や胸が固くなり、
夜眠っても何故か疲れが抜けないような
感覚を残します。
たとえば恋愛では、
本当は「会いたい」「好き」と
伝えたいのに、
「重いと思われるかな」と
計算して黙ってしまう。
仕事では「これを提案したい」と
思っても、
「上手くいかなかったらどうしよう」と
様子を伺ううちに、機会を逃してしまう。
家庭でも、
素直に「ありがとう」や「助けてほしい」
とキチンと言えば済むことを、
言えずに溜め込んで疲れてしまう。
駆け引きは一見すると
賢い立ち回りに見えますから。
けれどそれは、
生命のリズムで見れば、、
実は
流れをせき止めることなんです。
先を読もうとすればするほど、
今この瞬間の調和から外れていき、
本来の自分の声が聞こえなくなる。
そしてエネルギーの視点から見れば、
駆け引きは「信頼のスペース」を
潰す行為でもあります。
本来、人と人の間には
循環する場があって、
そこに安心や気づきが流れ込んできます。
ところが、
駆け引きが入るとその場は計算で満たされ、
エネルギーの通り道が塞がれてしまう。
結果として、
相手は「何か違う」と感じて距離をとり、
自分自身も「常に張りつめている」
緊張状態になるのです。
反対に、駆け引きを手放すとは、
「不安を計算で覆い隠さない」こと。
それは自分のリズムを取り戻し、
同時に人との間にスペースを
開くことでもあります。
不安も素直に差し出すことは、
損することではありません。
むしろ、そのスペースを通じて
調和が生まれ、結果的に
思わぬ学びや豊かさが循環してくるのです。
あなたは今、
どんな場面で駆け引きを
してしまっていますか?
もしその計算を一度手放したら?
人との関係や、
自分の体と心に、
どんな軽さが戻ってくるでしょうか。
幸せは「先回りの計算」によって
得られるものではなく、
「今ここで素直に差し出すこと」から
始まるのかもしれません。




























































