Blog記事一覧 > 5月, 2026 | 淀川区・十三で評判の荻野接骨院の記事一覧
こんにちは。^ ^
今日は、
ショート動画のあとなぜ現実が重くなるのか?
スマホに麻痺された意識を、
身体に戻すためには?
について書いていきます。
先ずは質問。
あなたは一日、どれくらいスマホを触っていますか?
スマホのスクリーンタイムを見てみると、
思っていたよりも長く使っていて、
少し驚くことがあるかも知れません。
1時間。
2時間。
3時間。
気づけば、5時間、6時間。
人によっては、
一日のうち7時間、8時間、9時間近く、
画面に意識を向けていることもあるかもしれません。
もちろん、スマホを使うこと自体が
悪いわけではありません。
仕事の連絡。
家族とのやり取り。
調べもの。
買い物。
動画。
SNS。
今の生活の中で、
スマホはとても便利な道具です。
ただ、健康づくりの目安としては、
余暇のスクリーン時間を長くしすぎないことが大切だとされています。
大人の場合でも、
余暇のスクリーン時間は一日最低3時間以内を目安にする考え方がありますし、
子どもや若い世代では、一日2時間以内がひとつの目安とされています。
これは、
「それを超えたらすぐに身体に害が出る」
という意味ではありません。
けれど、毎日のように長時間スマホを見続けていると、
髪、歯、首肩、腰、
目、睡眠、集中力、気分。
そういったところに、
少しずつ影響が出てくることがあります。
気づけば、スマホを見ている。
少しだけ見るつもりが、
気づけば30分。
気づけば1時間。
気づけば、今日という日が、
画面の中で細かく切り刻まれている。
Instagram、ショート動画、
ニュース、LINE、通知。
どれも一つひとつは悪くありません。
便利ですし、楽しいですし、
人とのつながりを感じられることもあります。
けれど、身体の側から見ると、
長時間のスマホは、なかなか静かな負担になります。
首は下を向き、
背中は丸まり、
呼吸は浅くなり、
目は近くの光を追い続けます。
スマホを見ている間、身体は止まっているようで、
実はずっと小さな緊張を続けています。
スマホの使いすぎが身体への痛みのリスクと
関連することはもちろんですが、
でも、本当に怖いのは、
首や腰だけではないのかもしれません。
スマホは、身体の姿勢だけでなく、
意識の姿勢も少しずつ変えていきます。
ショート動画は、数秒ごとに刺激をくれます。
面白い。
かわいい。
驚く。
腹が立つ。
羨ましい。
もっと見たい。
脳にとっては、
小さな花火が連続で上がっているようなものかもしれません。
けれど、現実の暮らしは、
そんなふうには進みません。
洗濯物は、数秒で感動させてくれません。
食器洗いは、派手な効果音を鳴らしてくれません。
子どもとの会話も、
毎回ドラマのように盛り上がるわけではありません。
家族との日常は、バズりません。
現実は、もっと地味です。
もっと遅いです。
もっと手触りがあります。
だからこそ、スマホの刺激に慣れすぎると、
現実の静けさが「退屈」に感じられることがあります。
本当は、退屈なのではなく、
刺激が強すぎる世界に、
神経が慣れてしまっているのかもしれません。
ショート動画の使用量が多い人ほど、
不注意傾向と関連するという研究や、
短い動画への依存傾向が、
睡眠や注意、判断に影響することを示す
研究も出てきています。
まだまだ将来たくさん出てくるでしょう。
さらに、SNSには「比較」があります。
誰かの楽しそうな生活。
誰かの成功。
誰かの美容。
誰かの家族。
誰かの仕事。
誰かのキラキラした一場面。
でも、それは人生の全部ではありません。
切り取られた一瞬です。
それを毎日見続けると、
自分の生活だけが、くすんで見えることがあります。
本当は、目の前にある暮らしにも、
小さな光はあるはずなのに。
スマホを長く使うことが、必ず悪いとは思いません。
ただ、
見終わったあとに元気が減っている。
首肩や腰が重い。
眠りが浅い。
家のことをする気力が出ない。
現実に戻るのが面倒になる。
人と比べて気分が沈む。
そういう感覚があるなら、
それは身体からの小さなサインかもしれません。
「スマホをやめなさい」ではなく、
まずは、スマホから少しだけ身体を取り戻してみる。
食事中はスマホを置く。
寝る前30分だけ見ない。
朝起きてすぐには開かない。
トイレや布団にスマホを持ち込まない。
10分見たら、一度立って呼吸する。
それだけでも、身体は少し現実に戻ってきます。
スマホを見ているとき、私たちの意識は、
小さな画面の中にきゅっと集まりやすくなります。
目の前の四角い世界に集中するほど、
自分の周りにある空間や、身体の広がりを忘れてしまうことがあります。
だからこそ、スマホを置いたときは、
ただ遠くを見るだけでもいいのですが、
もう少しだけ、
自分の周りの空間を思い出してみてください。
自分の前。
後ろ。
右。
左。
そして、頭の上。
存在を取り囲んでいる空間に、
意識をそっと開いていく。
それだけでも、呼吸が少し深くなったり、
首や肩の力が抜けたり、
現実に戻ってくる感覚が出てくることがあります。
スマホの中に、世界はあります。
でも、生命が回復する場所は、
画面の中だけではありません。
呼吸。
足裏。
台所の音。
子どもの声。
洗濯物の重さ。
部屋の空気。
自分の身体の奥にある、静かな疲れ。
そういうものに気づいたとき、
人は少しずつ、自分の場所に戻ってきます。
スマホを敵にしなくてもいい。
ただ、スマホに自分の一日を明け渡しすぎていないか。
そこを、たまに身体に聞いてみてもいいのかもしれません。
画面を見る時間を少し減らすことは、
情報を減らすことではありません。
自分の生命に戻る余白を増やすこと。
身体の奥にある静かな感覚を、
もう一度思い出すこと。
現実は、スマホの画面ほど刺激的ではないかもしれません。
けれど、そこには、
呼吸があり、
重さがあり、
ぬくもりがあり、
自分の身体があります。
その何気ない現実に戻ってこられること。
それが、今の時代には、
とても大切な回復なのかもしれません。
こんにちは。
以前、Mr.Childrenの『ヒカリノアトリエ』についてブログに書いたことがありますが、
あの曲には、
日常の中にある小さな光を見つけていくような温かさがありました。
そして今回、Mr.Childrenのアルバム『産声』を聴いていて、
また違う形で身体の奥に触れられるような感覚がありました。
特に表題曲の『産声』を聴いたとき、
なぜか涙が流れました。
悲しいという感じでもなく、
感動したと簡単に言えるものでもなく、
何かよくわからないところに触れたような涙でした。
頭では説明できないのに、
身体の奥では先に何かを受け取っている。
そういう反応だったのかもしれません。
「産声」という言葉に感じたもの。
産声というのは、
生まれた瞬間に出る声です。
それは、
誰かに評価されるための声ではありません。
何かを達成した声でもありません。
上手に話そうとする声でもありません。
ただ、生まれてきた命が、
世界に触れたときに出る声です。
大人になると、
社会の中でいろいろな役割を持ちます。
仕事をする自分。
親としての自分。
子どもとしての自分。
誰かに迷惑をかけないようにする自分。
ちゃんとしていようとする自分。
そうした役割は、
もちろん大切です。
でもそれが重なりすぎてると、
なんだか、間が埋まり、
「本来の声」が奥の方に隠れてるというか、
わからなくなってしまうことがあります。
しっかりしなければいけない。
前向きでいなければいけない。
人に迷惑をかけてはいけない。
ちゃんと結果を出さなければいけない。
そんな自分を保っているうちに、
身体も心も少しずつ力んでいく。
気が付かないように。
『産声』を聴いたときに反応したのは、
そうした役割の奥にある、
もっと裸の生命のようなもの。
頭の中では、
記憶や後悔や願いがめぐり、
いろいろな意味を探し続けています。
あの時こうすればよかった。
もっとちゃんとできたのではないか。
これでよかったのだろうか。
そうやって考えたり、
意味を探したり、
過去を振り返ったりすること、
けれど、
それらの言葉や思考の奥にも、
言葉になる前の命の響きのようなものがあるのかもしれません。
「考える私」の奥にある
「ただ生きている命」
今回はそこに音楽を通して、
触れたような感覚がありました。
あと、
アルバムの中には『Again』という曲もあります。
なんかのドラマの主題歌になってたんですかね。
「もう一度」という言葉を聞くと、
つい、もう一回頑張ること、
立て直すこと、
前を向くことを想像します。
だけと身体の世界では、
変化は必ずしも「頑張ること」だけで起きるわけではありません。
むしろ、力が抜けたとき。
守っていたものが少しゆるんだとき。
もうどうにもならないと感じたあとに、
ふっと呼吸が戻るとき。
そういう瞬間にこそ
身体が静かに変わりはじめることがあります。
「もう一度」って、
自分で無理やり人生を動かすことだけではなく、
なんだか奥の方から、
自然に動きが戻ってくることなのかもしれません。
暗がりの中で、
ふっと灯りが戻るように。。
それは、日々人の身体に触れている中でも
感じることがあります。
こちらが無理に変えようとしすぎると、
身体はかえって身構えることがあるんですよ。
けど安心できる余白が起こった時、
身体はちょうどのタイミングで反応しはじめます。
それは奥の方から小さな産声が上がるように。
言葉になる前のもので、
うまく説明できないものですけどね。
でも、わからないから
意味がないわけではなくて。
むしろ、
言葉になる前のところにこそ、
身体の本音が隠れているというか、
生命が現れているというか。^ ^
痛みや違和感も、
嫌ですけどね。
そやから
消そうとするだけではなく、
身体からの、
小さな知らせとして聴いてみると、
そこには筋肉や関節だけではなく、
緊張、我慢、不安、寂しさ、責任感、
そういったものも
含まれていることを感じれたりするかもです。
身体には、
その人が生きてきたおもいが静かに刻まれていますから。
これまで守ってきたもの。
こらえてきたもの。
言葉にできなかったもの。
それらが、
身体を通してね。
しずかーに。
そこでふっと戻ってくる瞬間は、
余分な緊張がほどけていくような。
無理にポジティブになるのではなく、
今の自分の状態を静かに感じられるような。
小さな反応ですよ。
それは。
大きな変化ではなくて、
小さな、身体にとっての「産声」のようなもの。
何者かにならなくても、
ちゃんとしていなくても、
今ここに生きていることそのものからやってくる。
そんな感覚です。
痛みを消すだけではなく、
自分の内側の音を聴き直せる状態へ。
本来施術とは、
身体を外側から思い通りに変えることではなく、
その人の中にすでに芽吹いている小さな声が、
そっと聴こえてくるための間なのかも、
そんなことを感じました。^ ^
こんにちは!
今日の気づきの視点は、
自律神経は、本当に乱れているのか?
について。
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先日ですが。
「自律神経を整える」というタイトル言葉を、
雑誌で見かけました。
そこには、
自律神経がいかに乱れる時代に生きているのか?
という症例がたくさん載っていて、
自律神経って、めっちゃっ大事な機能やから、
大急ぎで整えないと!
というところで、
なんやかかんやと、
整えるためのやり方が書いてあったりの
わけですが。
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読みながら、
少しだけ立ち止まって考えてみたのです。
もしかすると、
もしかしてだけど、
自律神経は乱れているのではなく、
無理の重なった
その暮らしや、
緊張が続いた環境に対して、
一生懸命に対応してくれている、
だ、け、かもしれません。

良く聞く症状の、
眠れない。
胃腸が重い。
冷える。
のぼせる。
汗が出る。
不安になる。
イライラする。
急にやる気がなくなる。
頭が真っ白になる。
そんなこれらすべて、
「自律神経が乱れているから」
「正常に動いていないから」
と見てしまうと、
頭はつい、
自律神経そのものをコントロールし、
正そうとしてしまいます。
けれど、
自律神経って、敵ではありませんよね。
むしろ、
身体の奥でずっと働き続けてくれている
味方です。
無理をしていないかい?
我慢しすぎていないかい?
自分を安売りしていないかい?
寒いのに耐えていないかい?
眠いのにカフェインで押し切っていないかい?
本当は嫌なのに、平気なふりをしていないかい?
人間関係の中で、
大切の感覚を置き去りにしていないかい?
そうした日々の無理を、
身体は静かに淡々と感知しています。
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そして、
その中でなんとか倒れないように
適応しようとした結果が、
世間が、
「不調」と
呼んでいるものの1つだったりします。
そうか、
この身体は文句も言わずに生きるために、
頑張ってくれているんだなぁ。。。
もしもそう気づけたなら、
この瞬間に必要なのは、、、
「よし、今日から暮らしを正しく整えよう」
と、
新たなプレッシャーを身体にかけることでは
ないんです。
「正しい生活」という枠に、
理想を押し込もうとすることは、
また身体との新たな戦いを生んでしまいますから。
![]()
何かを変えようと焦る前に、
ちょっとまずは立ち止まって、
身体の言い分を聴いてみるんです。
今の状態を、
痛いや辛いやしんどいやらと、
すぐに否定しない。
身体と戦うのを、
少しやめてみる。。。
するとその瞬間、
心身の奥で張り詰めていた力みがふっと抜け
存在の中に、
小さなスペースが生まれます。
何かを足そうとする前に、
まずは肩の力を抜いて、
呼吸をひとつ戻してみるんです。
まぁ、毎度伝えてますが。
騙されたと思って一度、
存在を空っぽにするような時間を
持ってみて下さい。

身体の調和していく力は、間と共に働くから。
そのスペースができたときに初めて、
この存在たちは自然と無理のない、
存在にとって心地よい暮らしへと
移っていくことができます。
自律神経は、壊れた装置ではありません。
身体が今の生き方に対して
出してくれている、とても繊細なメッセージです。
だから、
一人で無理に「正しく整えよう」と、
自我と戦う必要はありません。
本当の調和は、
心身の力みが抜け、
そこに静かなスペースが生まれたときに始まります。
![]()
自律神経を、
力技で治そうとする必要もありません。
大切なのは、
自律神経が安心して働ける土壌を取り戻していくこと。
無理に整えようとしなくても、
身体の力みがほどけると、
人は少しずつ、
本来の調和を思い出していきます。
当院では、そのための静かな余白を、
身体を通して大切にしています。^ ^
こんにちはー。
立夏に入りましたねー。
新学期が始まって、
少し学校生活にも慣れてくる5月。
実はこの時期、
子どもたちのケガが増えやすい季節
でもあります。

体育、部活、クラブ活動、運動会の練習。
4月はまだ様子を見ながら動いていた身体も、
5月になると急に、
走る、跳ぶ、蹴る、踏ん張る
といった動きが増えてきます。
その中で出てきやすいのが、
成長期特有の痛みやケガです。
大人の場合は、
筋肉や靭帯を痛めることが多いですが、
成長期の子どもは少し違います。
まだ骨が成長している途中なので、
筋肉が骨にくっついている部分や、
骨の成長に関わる部分に
負担がかかりやすい時期でもあります。
ダッシュをした時。
ジャンプをした時。
ボールを強く蹴った時。
急に方向転換をした時。
こうした瞬間に、
筋肉が骨を強く引っ張ることで、
骨の付着部に負担がかかることがあります。
場合によっては、
「剥離骨折」や「裂離骨折」と
呼ばれる状態になることもあります。
特に成長期では、
骨盤や股関節まわり、膝、かかとなど、
筋肉が強く引っ張る場所に痛みが
出ることがあります。
では、なぜそのような負担が
起こりやすくなるのでしょうか?
もちろん、
運動量が増えることは
大きな理由の一つです。
ただ、
それだけではありません。
5月の子どもたちは、
身体だけでなく、
心も新しい環境に適応している途中です。
新しいクラス。
新しい先生。
新しい友達。
新しい部活。
先輩との関係。
「頑張らなきゃ」
「迷惑をかけたくない」
「レギュラーに入りたい」
「ちゃんとしなきゃ」
こうした目に見えない緊張が、
知らないうちに身体へ
影響していることがあります。
緊張が続くと、
呼吸は浅くなりやすくなります。
大人でも自分の緊張に気づかずに、
呼吸が浅く肩こり頭痛を引き起こしているパターンは沢山ありますが、
肩や背中、
股関節まわりにも、
余分な力が入りやすくなります。
身体の中のゆとり、
つまりスペースが少なくなっていくのです。
スペースが少なくなった身体は、
動きに余裕がなくなります。
本来なら柔らかく受け流せるはずの力も、
逃げ場がなくなることで、
一部分に集中しやすくなります。
その状態で急に
走る、跳ぶ、蹴る、踏ん張る。
すると、
筋肉や関節、骨の付着部に
大きな負担がかかることがあります。
ここで大切なのは、
「歩けているから大丈夫」
と決めつけないことです。
もちろん、
歩けているなら重症ではない場合
もあります。
ただ、成長期の痛みは、
我慢して運動を続けることで
長引くことがあります。
特に、
走ると痛い。
ジャンプすると痛い。
ボールを蹴ると痛い。
股関節や骨盤まわりに鋭い痛みがある。
足を引きずる。
数日たっても痛みが引かない。
こうした場合は、
無理に続けず、
一度きちんと確認しておくことが大切です。
子どもは
「休みたくない」
「みんなについていきたい」
と思って、痛みを隠すことがあります。
親御さんから見ても、
普通に歩いていたり、
家では元気そうにしていると、
つい大丈夫かなと思ってしまいます。
でも、
身体の中ではまだ回復の途中
かもしれません。
痛みは、
単なる邪魔者ではありません。
身体が、
「少し負担が強すぎるよ」
「今は休ませてほしいよ」
「このまま続けると長引くかもしれないよ」
と教えてくれているサインでもあります。
もし今夜、お子さんが寝静まったら、
少しだけ寝姿を眺めてみてください。
呼吸が浅くなっていないか。
肩や首に力が入ったまま眠っていないか。
歯を食いしばっていないか。
身体が安心して休めているか。
何かを見つけようとしなくても大丈夫です。
ただ、少しだけ見守る。
その時間だけでも、
親御さん自身の呼吸が少し
深くなるかもしれません。
そして親御さんの呼吸がゆるむと、
家庭の空気にも少しゆとりが生まれます。
子どもの身体は、
そうした空気をとても敏感に
感じ取っています。
「早く治さないと」
「休ませた方がいいのかな」
「でも試合があるし」
そう思うのは、
親として自然なことです。
ただ、
不安の圧が強くなりすぎると、
子どももまた身体を固めてしまうことがあります。
まずは親御さん自身が、
少しだけ肩の力を抜いてみる。
それも、
子どもの身体を見守るうえで
大切なスペースになるかもしれません。
荻野接骨院では、
痛みの出ている場所だけを局所的に見るのではなく、身体全体の使い方を見ていきます。
股関節や骨盤の動き。
筋肉の緊張。
呼吸の浅さ。
足のつき方。
姿勢のクセ。
そして、
身体全体にどれくらい余分な力みが
入っているのか。
そうした部分を確認しながら、
回復しやすい土壌を整えていきます。
もちろん、
骨折や剥離骨折が疑われる場合は、
まず整形外科での画像検査が大切です。
そのうえで、
今は安静が必要な時期なのか。
少しずつ動かしてよい時期なのか。
どこに負担が集まっていたのか。
復帰に向けて何を整えていけばよいのか。
そうした部分を丁寧に見ていくことが、
再発予防にもつながります。
5月は、子どもたちが新しい環境の中で
少しずつ動き出す季節です。
そのぶん、
身体には目に見えない力みが
蓄積していることがあります。
「少し痛いけど大丈夫」
その一言の奥に、
身体からの大事なサインが
隠れているかもしれません。
子どもの痛みを、
ただの甘えや気合い不足として片づけず、
成長途中の身体からのメッセージと
して見てあげる。
それだけでも、
ケガとの向き合い方は大きく変わってきます。
頑張る子どもたちの身体が、
無理な力みなく、
自然に成長していけるように。
痛みや違和感が出た時は、
早めに一度ご相談ください。




























































