こうあるべきという子育てに疲れたお母さんへ
こんにちは。
4月も終わりゴールデンウィークが始まりますが、とても気持ちの良い温度が続きますね。

今は子育てについて書いてたんですけど、
途中から、ちょっと深い話になってしまったかもです。
まあ、なんとなく書いてたんですけどね。
何でもそうなんですが、
悩んでいる人の特徴として、
だいだいが真面目で、
1つの選択肢しかないパターンが見えるので、
また違う選択肢をお伝えしたいと思います。
子育てに悩んだことはありますか?
子育てに限らず何事もですが、
悩むことは実際のところ、
良いとか悪いとかではなく、
ただ、じつは、
その悩みが今、
ここに“ある”というだけのことなんですね。
例えば、
「子どもに好かれたい」
「嫌われたくない」
その気持ちも、
良いとか悪いとかはありません。
ただ湧いてくる感情です。
そう思っている“存在”が、
今ここにいるということ。
親である存在も、
子であるその存在も、
いつも、
今しかなくて、
「こうしなければならない」
「こうあるべきだ」
という声は多くの場合、
過去に誰かがそう言った、
言葉の残響かもしれません。
例えば、
「愛とはこういうものだ」
「厳しさが愛の証だ」
そんな“定義”も、
本当に自身の感覚から出たものでしょうか?
それとも、
誰かの目を通して見た“正しさ”かもしれません。
子どもがどんなふうに育っていくのか。
それは、
誰にも分からないことです。
育てようとしても、
育ってしまうこともあれば、
育てようとして、
何も変わらないこともある。
そこに因果を求めすぎると、
疲れてしまうこともあります。
「しつけが大事」
「徳性が大事」
「知識よりも心だ」
それも視点のひとつかも知れない。
その視点があなたの中で静かに響いたならば、
それを大切にするのもいいですね。
でも、もしその言葉があなたを縛って
苦しくするなら、
いったん置いてみる。
という選択もあっていいかもです。
見える世界では、子どもは親を選べません。
でも親もまた、
「親という役割」を突然与えられ、
戸惑いながら、
その日々を生きていきます。
うまくいかない日があっても、
感情に振り回される瞬間があっても、
それすらも、
「あなたという存在」
がただ在るという証です。
子育ての本質とは、
教えることでも、
正すことでもなく、
ただ「共に在る」
ことなのかもしれません。
これからも、どれだけ
時代が変わっても、
知識が増えても、
「共に在る」ということだけは、
いつまでも変わりません。
共に在るだけで良いのなら、なんだか少し軽くなりませんか?
今そこに、
あなたと子どもがいる。
そのこと自体が、
何かを教えようとしても、しなくても、
もう既に、尊いのかもしれませんね。
それでも悩み、
例えば、
「そんなこと自分にできるわけがない」
その思いが浮かぶとき、
それもただ、
心がそう言っているだけです。
それは真実でも、
嘘でもありません。
浮かんだだけなんです。
「私にはできる」と言ってみても、
その声にどこか違和感があったなら、
それもまた、
ただそのままで良いのです。
変えようとしなくていい。
押しのけようとしなくていい。
「できない」と思う自分もいていい。
「できるようになりたい」と、
願う自分もいていい。
「頑張りたくない」と、
思う日もあっていい。
どの瞬間も、
どんな自分も、
ただそこに“在る”だけで
もう充分に生きています。
ただ、
「そのままの今の自分に何も足さなくてもいい」
本当にそう感じられたとき、
世界は鏡のごとく、
いつのまにか、
あなたにしかない光がにじんできます。
人間は、
何かにならなくてもいいし、
能力が発現しなくてもいいし、
愛を与えられなくてもいいし、
何も実現しなくてもいいし、
ただ“存在している”ということだけで、
もう言葉にならないほど豊かなことなのです。
それでもふと、
「~してもいいな」
と感じたなら、
それは、
命のほうからあなたに語りかけている声かもしれません。
その声もまた、
信じすぎなくていいですし。
ただ、耳を澄ますだけで充分です。
悩んでいるお母さんが、
もし今日、
「何かを変えよう」とするかわりに、
「いまのままでいい」と、
ひと息つけたなら
それはすでに、
あなたという命が、ほんとうに開きはじめた証、
なのかもしれません。^ ^