棚からぼたもちと、気づかないギフト
こんにちは。
暑くなってきましたね。
自律神経に負担がかかり、
なんやかんやと大変な方もおられるかも知れませんが、
今日もちょっぴりわかる人には、
わかるかも知れないお話をしてみましょう。
「棚からぼたもち」という言葉には、
なぜか心をくすぐられるような響きがありませんか?
なーんにもしていないのに、
どこからともなく、
甘くやわらかなものが落ちてくる。。。^ ^

努力せず、
望まず、
ただそこにいるだけ!
で、
ご褒美のような奇跡がやってくる。。。^ ^
誰にでも、
一度はそんなふうなことを、
願ったことがあるかもしれません。
今の世の中でも、
何となく「勝手に良くなる幻想」が、
静かに広がっているように思います。
・これを持つだけで
・これを食べるだけで
・これを学ぶだけで
・これを言葉にするだけで
何かが変わると信じさせるような仕組みが、
あちこちに息づいています。
そして、気づけば、
ぼたもちを待ち続ける日々が
始まっているのかもしれません。
身体の世界にも、同じ空気が漂っています。
・過去のトラウマを癒やせば、すべてが整う
・身体の声を聞けば、自動的に回復が始まる
・思いを言葉にすれば、人生が動き出す
そんなふうに、
「なにか一つをすれば、あとは勝手に…」と
いう期待が、
知らず知らずのうちに根を張っていきます。
でも、そうした考えは
身体の現実とは、
少し違っているように感じます。
栄養は、
ただ摂っただけでは届きません。
睡眠は、
長ければいいというわけでもありません。
施術も、ただ受けたからといって、
変化が起きるとは限りません。
身体はいつも、
選び、応じ、揺らぎながら、
静かに
“生きている”という営みを続けています。
整うとは、
よくなるとは、
うまくいくとは、
それは、「やり方」の話ではなくて、
「在り方」や「間(ま)」
との関わり方の話かもしれません。
ほんの小さな
手 間 をかけて、
名前のつかない行動を重ねながら、
気づかれない内側の調整を、日々続けていく。
その積み重ねの先にある “間” に、
あるとき、
ぼたもちは落ちているのかと。
でも、そのときにはもう、
それを“ご褒美”とは感じないかもしれません。
ただ、
「ああ、流れているな」
「いまは、そういうめぐりだな」
そう思えることこそ、
とても大きなギフトなのかもしれません。
全ては良いことしか起こってない。
これは事実なんでしょう。
しかし、それは自己にとってではなく、
この存在にとってなんですね。
そんな自己の期待を超えて訪れるものは、
比較しようのない、
十分なスペースの中にしか現れません。
そしてそれは、
準備すら忘れてしまった頃の “間” に、
そっと、
“やってくる”のかも知れません。
そんなお話でした。^ ^